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安保法から3年 [平和を]

 

 

外国軍隊との共同訓練が増えています。PKOを利用した軍隊同士の連携が進み、警戒する国も増えていないかと心配します。

 

「安保法足場広げる自衛隊 成立3年 

陸自 PKO多国間訓練

海自 インド洋長期派遣

安保法安全保障関連法は今月19日で成立から3年となる。 自衛隊は6月に初めて、安全保障関連法で認められた 国連平和維持活動(PKO) の「治安維持任務」を想定した訓練を海外で実施した。南シナ海からインド洋にかけての海域では、昨年に続き艦艇が長期派遣され、米海軍などと共に行動。既に実施した米艦防護や検討中の多国籍軍への陸上自衛隊派遣などと合わせ、安保法で広がった活動分野ヘ着実に足場を広げている。 「重傷。意識なし」。隊員の容体は叫び声で伝えられた。モンゴルで開かれたPKOの多国間訓練。食料 交付所を警備する陸自の普通科部隊は、輸送用トラックへの襲撃や、施設に無理やり入ってくる住民の対応に当たった。混乱の中、武装勢力が機関銃を発射し、陸自隊員にけが人が出る想定が盛り込まれた。

 こうした治安維持任務は、PKOの現場にいる軍人以外の文民を保護するのが目的。これまで武器の使用権限などの問題から認められていなかった。 日本は国連に対し、提供できる部隊として、道路補修を得意とする施設部隊などを登録。治安維持任務に担当する普通科部隊は危険性が高いことを理由に外している。派遣の可能性「ほぼゼロ」(防衛省幹部)だが、訓練に取り組んでいる形だ。(以下略)」(2018918日西日本新聞)

 


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考えさせられました [平和を]

 

 

 

「【命の重み】 徳増 浩司(とくます・こうじ)さん=ラグビーW杯2019組織委事務総長特別補佐

 

◆天命に全力尽くしたい

 父親の戦争体験を通じ「命の重み」というテーマで書いてみたい。父親は、第2次世界大戦のサイパン島玉砕から奇跡的に生還した数少ない日本人のひとりだった。

 サイパン島は日本本土を米軍の空襲から守るための最後のとりでだった。しかし、記録によると、戦局悪化した1944年夏、サイパン島の指揮を任されていた南雲忠一中将は全軍にこんな内容の指示をしたという。「今や止まるも死、進むも死、生死すべからくその時を得て帝国男児の真骨頂あり、今米軍に一撃を加え太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす」

 この命を受け、民間人を含め、多くの日本人が米軍をゲリラ襲撃して死亡するか、あえて自ら命を絶った。バンザイクリフから次々に飛び降りる日本人に向かって、米軍が船から「イノチヲ、タイセツニ、シテクダサイ」と放送したという

 父は生き延びた。「ジャングルに逃げて蛇や木の皮を2カ月ぐらい食べた。当時24歳だったが、いつの間にか白髪になってしまった。ある日、頭がぼーっとしていたら、いきなり手を米兵につかまれた。すぐ殺されると思った」

    ◆   ◆

 ハワイの捕虜収容所に連れて行かれ、やがてサンフランシスコに到着する。「ゴールデンゲートブリッジが夕日に当たって輝いているのを見て、美しいと思った。こんな大きな国と戦争していたのかと思った。最初から勝ち目のない戦争だということが、その時に分かった」。さらにワシントンの収容所に移送された後、日本に送還された。故郷の静岡・浜松に帰ると実家にはすでに墓があり、幽霊が出たのかと驚かれたという。

 私は子どもの頃には、父親から戦争の話を一度も聞いたことがなかった。「サバイバーズ・ギルト」と言う表現がある。悲惨な事件や事故で生き残った者のみが持つ罪悪感のことだ。20代前半で地獄図から生還後、ずっと口を閉ざしていた父は、90歳代に入り、福岡市内の高齢者ケアハウスにお世話になった頃から、やっとスタッフに少しずつ戦争体験を語り始めた。

 今夏に体力が衰えて入院。あとは点滴を受けながら病院のベッドで死を待つばかりの生活となったが、戦争体験を一緒に聞いてきたケアハウスのみなさんが協力して申し出て、もう一度、父親を引き取ることになった。住み慣れたケアハウスで若いスタッフに囲まれた父親は、ひとたび生きる意欲を回復させて元気を取り戻して戦争体験を語り続けたが、10月末に98歳の天命を全うした。

    ◆   ◆

 父親は死の直前、ケアハウスのリハビリスタッフにこう語ったという。「私は臆病者だからあの時ジャングルに逃げてしまった。それがそのあと自分をずっと苦しめてきた。しかし、今になって私の行動は間違ってなかったと思えるようになった」と。(以下略)=2018/11/05付 西日本新聞朝刊=」

  

 過労死の報道をみるたびに、命より大事な仕事はないと思いますが、当事者にしてみればそんなことを考えられない環境に置かれているのだとも思います。

 

 

 

 

 

 


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言論の自由は [平和を]

 

 

日本は言論の自由があるとされていますが、世界でのランクでは70位以下です。現政権になって報道機関への圧力が強いと言われ、NHKを含めて「自己規制」が広がっているようです。テレビ業界で顕著のようです。政権に批判的な番組が減ってきているともいわれています。それは何の目的があってしているるのでしょうか。

 

「戦時における『言論の自由の必要性』を説いた小説家

 こうした財政的見地からの分析とは異なる、一般市民の日常生活レベルでの困惑と違和感を書き記した のは、同じ『中央公論』九月号に掲載された、小説家・武田麟太郎の「国を愛すること」という記事でした。

武田麟太郎は、大阪出身のプロレタリア文学(労働者階級の視点で生活や葛藤を描く小説)の作家でしたが、内務省(警察)によるプロレタリア文学の弾圧後は、庶民作家として市民の日常を措く作品を多く 執筆していました。 彼はまず、行きつけの中華料理店が店をたたみ、店主が中国に帰国せざるを得なくなったことを残念に思う気持ちを、素直な筆致で記しています。 「私は食いしん坊だから、支那料理のことを書く。あれは、私の最も愛好する食べ物で、大げさでもなく、毎日口にしても少しも飽きぬ。近年、過労と睡眠不足のため、時たま今にも倒れそうになりながらも、体力を維持してきたのは、あるいはかの食べ物の関係ではないかとすれば、なかなかありがたい支那料理になる。(中略)」(『1937年の日本人』)

 

 


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戦争に負けたことは [平和を]

 

 

「花時計

先月、厚生労働省が子どもの虐待を巡る調査結果を発表した。昨年度の全国の児童相談所の対応件数は、過去最多を更新。親が子どもの目の前で配偶者を殴ったり怒鳴りつけたりする「面前ドメスティックバイオレンス(DV)」などによる「心理的虐待」も増えていた▽力や心ない言葉に訴える親は、ただの夫婦げんかと軽視していないだろうか。子どもは、親が日 の前で暴力を振るい、振るわれでも何もできない 無力感にさいなまれ、心が引き裂かれる。親は深刻な状況とは考えていないかもしれないが、子どもは人知れず深く傷つい ている▽家庭内の暴力や暴言は、子どもの安心できる居場所を奪い、ゆがんだ家庭観を植え付けてしまう。その手を振り上げる前に、わが子への影響の大きさに心を寄せてほしい。(井中恵仁)

2018914日西日本新聞)

 

児相を開所しようとすると地域のイメージダウンになるみたいなことで反対運動があるそうです。何か価値基準が違うのではないか。近頃思うのは戦争の反省が出来ていないのではないかと痛切に思う。

 

「兵隊生活2度 夫35歳で逝く  95歳 

昭和16年、支那事変(日中戦争)帰りの男性と結婚しました。そのころ日本は平和でした。夫に戦争のことを尋ねると「聞くな」「戦争の話は一言も話したくない」と言います。夫は昭和15年ごろ復員し、日本に帰 ってから鉄工所で早出、残業と一生懸命働きました。 私も嫁になり、同じ鉄工所で一生懸命働きました。 201月ごろ夫は召集されました。2度目の兵隊です。私は3歳と生後2カ月の子どもと、その日暮らしでした。博多の空襲で夫の姉は焼死しました。私の家は被害はありませんでしたが博多の街は丸焼けです。

夫は戦争でマラリアという苦しい病気にかかりました。2度目の兵隊から帰ったその日から、苦しいなが らも働きました。十分な薬 はなく昭和28年、35の働 き者だった夫を亡くしまし た。戦争の被害者であり、 無念と思いながら旅立った と思います。戦争など二度 とないことを祈っていま す。」(同前)

 

「部下死なせた自責の念抱き 85

 ある日、突然1通の篭報が届きました。「マサル カエタブジ」。「マサル」 とは祖父の次男で私の叔父に当たります。田川(福岡県)に住んでいました。長い間ビルマで憲兵として戦っていたそうです。終戦で祖父が一番心配したのは部下をいじめた上官たちは、今度は部下に仕返しをされるということでした。でもそんな心配もなく、叔父は無事帰還しました。祖父母をはじめ、皆で大喜びしました。復員後は元の職場に復帰したようです。その叔父も亡くなり、葬儀で喪主の息子さんがあいさつしました。「父(叔父)はとても生命力の強い人でし

た。長いビルマの戦にも負けず、マラリアにも負けなかった。帰りの船では、部下死なせて自分だけ帰って良いものかと葛藤し、思い余って夜中に海に飛び込んだそうです。でも気付いたら船の中、助けられていたそうでよ」。初めて聞いた話 でした」(同前)

 


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明治150年の遺産なのか [平和を]

 

 

この問題では分からないことがあります。日本も韓国も三権分立です。韓国の司法が判断したことに政府としてどういう対応できるのか。日本の世論調査では韓国の対応に不満だとするのが多いようですが、マスコミ報道での判断ですが、三権分立のことも含めて韓国民個人の賠償請求権はないのか。長い占領期間の問題が背景にあるのか。分からないことが多い。

 

「(声)元徴用工問題、戦争の罪深さ痛感 67歳 2018114日朝日新聞

 韓国の最高裁は、日本統治時代に労働力として動員された韓国人元徴用工が新日鉄住金に求めた損害賠償請求を認める判断を示した。同様の訴訟を抱える日本企業は約80社に上る。

 文在寅(ムンジェイン)政権は判決を尊重する姿勢だ。日本政府は1965年の日韓請求権協定で元徴用工の賠償問題は解決済みであり歴代の韓国政権もこれを認めてきた、と反発する。日韓関係が冷え込むことは間違いない。

 慰安婦問題もそうだが、日韓両国政府が合意したはずの、戦時中の負の遺産の解決策がまたほごにされようとしているように思える。安易にほごにされては日韓関係は成り立たない。

 当事者の完全な納得は難しいとしても、一国の政府が高度な政治判断に基づいて締結した他国との約束に、国内の司法が妥当性を判断する余地はあるのだろうか。韓国政府の一貫した対応を求めたい。

 戦後73年を経過しても戦争を巡る被害者の傷は癒えず、訴えは絶えない。支配・被支配関係や交戦の過去がある国同士の友好関係の再構築がいかに困難かを痛感する。戦争の罪深さを再認識し、二度と戦争を起こしてはならないとの思いを強くした。」


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国民精神の総動員が迫ってくる [平和を]

 

 

憲法を順守すべき総理大臣が改憲を言い出す国では、かつての戦争に対する反省がないのだろうか。

 

「九月十日付大朝朝刊一面は、告諭の文面を報じましたが、 その中には次のような一文がありました。

「およそ難局を打開し、国運の隆昌をはかる道は、我が尊厳なる国体に基づき、尽忠報国(君主=天皇に忠義を尽くし、国家に報いること)の精神をますます振起してこれを国民日常の業務生活の間に実践することにあり、今般国民精神の総動員を実施するゆえんもまたここに存する」

 近衛の説明に登場した「国民精神の総動員」とは、一九三七年の秋以降、日本国民の生活に影響を及ぼしていた、戦争協力の一大国民運動を指す言葉でした。 第四章で少し触れた通り、政府内の情報委員会、内務省、文部省は、八月十七日と十八日に協議会を開いて、国民の戦争への協力態勢を盤石なものにするための方策を練っていました。そして、これらの会合の結論を踏まえ、近衛内閣は八月二十四日に「国民精神総動員実施漂欄」と名付けられた国民運動の指針を、次のように閣議決定しました。

「三、指導方針

()『挙国一致』『尽忠報国』の精神を硬くし、事態がいかに展開し、いかに長期にわたっても『堅忍持久ただあらゆる困難打開して所期の目的を貫徹すべき国民の決意を固めさせること。(以下略)』(『1937年の日本人』)

 

「国民精神の総動員」とは全体主義でしかありません。そんな国になるのでしょうか。


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日常の隣に [平和を]

 

 

施政方針演説で総理は「強い国」づくりをするという。狙いは武力の強化なのだろうか。どうにもとられる言葉ではありますが、最近の憲法改正の動きなどをみると軍備強化しか想像できない。一方では、女子駅伝のたすき渡しの前で走れなくなり、這って渡した場面に感動したという人が少なくない。私には無茶な突撃にしか見えなかった。そして、紛争地帯で捕まったジャーナリストに対する自己責任論がにぎやかです。その裏で、沖縄の負担軽減を名目に米軍基地機能の本土移転が進められています。私には何かの準備のように思えてきます。

 

1937年の日中戦争時の雰囲気に重なります。

 

「このように、日中戦争の情勢は、ますます深刻の度合いを強めていましたが、兵庫県の甲子園球場では、 朝日新聞社主催の「第二十三回全国中等学校優勝野球大会」が、八月十三日から八日間にわたって開催されていました。

この「中等学校」とは、現在の教育制度では実質的に高等学校のことで、現在の「夏の全国高校野球」 が、日中戦争勃発翌月の一九三七年八月にも行われていたのです。」(「1937年の日本人」)

 


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終戦でなく敗戦 [平和を]

 

 

2018815日西日本新聞の戦争体験記からです。

 

「旧制中学時代 敗戦知り失意 86

不滅を信じていたわが国が昭和20815日、ポツダム宣言を受け入れ、敗戦国となり、3年半に及んだ 太平洋戦争は終わった。 都市の中心部は米国の爆撃機B29で大量の爆弾を受け、焼け野原となった。必勝を信じ「欲しがりません」と衣食住の欠乏を我慢し、耐えてきた私たちは生活品の不足に泣かされた。飛行機乗りを夢見た旧制中学1 年生の私は、予科練となる希望を砕かれ、失意の中学生活を送った。

203月の東京大空襲以降、全国の都市ヘ空からの爆撃が続き、6月には私の住んでいた門司港の軍港も昼は戦闘機、夜はB29爆撃機攻撃が連日続いた。815日の昼、ラジオで玉音放送を聞いて敗戦を知った。町にはバラックの建物ができて闇市と呼ばれた商店街が並んだ。おかげで落ち着いた生活ができ、中学、高校と進み、将来の希望が持てた。」

 

「優しく立派な 米兵との交流  88

昭和21年夏、小石原川の甘木橋を通り掛かった私は米軍トラックの一団に出合った。米軍板付基地滑走路の、かさ上げ工事の砂利をすくいに来ていました。 私たち学徒は19年夏、大刀洗北飛行場建設の工事に 1週間近く従事したことが あります。炎天下、上半身裸でもっこを担ぎ、トロッ コ押しの仕事と、あまりに も過酷でした。 米軍が、河原の砂利を大 型ショベルカーですくい、 ダンプカーに積み込む作業を見て少年の私は驚きました。ある軍曹のドライバ ーと仲良しになり、全く物のない時代にチョコレー ト、チューインガムなどを頂き、その付き合いは1カ 月以上続きました。優しく 明るい米兵でした。 こんな立派な軍人がいて、近代化が進んだ米国と3年以上もどうして戦わなければならなかったのかを考えます。」

 

 

815日の夜 父との添い寝 85

昭和20815日の夜 は、前夜までとは違い、家々の明かりが遠慮がちに漏れて、灯火管制時代の終焉を知りました。 父は玉音放送が終わるや否や、国土防衛隊本部ヘ飛んで帰りました。「整理作業もあるので泊まりになるだろうから、弁当を持たせるように」と頼んでいて、 私が届けに行ったところ、 既に機雷や焼夷弾は影も形もなく、残っていたのは曹長の父1人でした。 「軍人として最後の夜になろうからおまえも泊まれ!」と、初めて弱音にも似た言葉を聞きましたが、父と2人で寝ることのうれしさ、人肌のぬくもりを感じました。その夜半。宿直室の窓が急に火災の色で明るくなり、大勢の人の気配。「ちょっと見てくる」と起き上がり、軍服に軍刀を手にした父の姿におびえました。

戻ってきだ父は「久留米の連隊が機密文書等を燃やしていた」。なぜ遠く久留米から?と思い、還暦を過ぎて調べたところ、志摩(現福岡県糸市島市)に分隊が存在していたことが分かりました。」

 

 


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殴る人 [平和を]

 

 

朝ドラ「まんぷく」では主人公の恋人が憲兵に捕まり、竹刀で叩かれ続けられます。そんな時に読みました。新聞の投稿欄からです。

 

「(声)語りつぐ戦争 気絶した新兵、叩き続けた上官 88

 20181015日朝日新聞

 父の反対を振り切り、海軍飛行予科練習生(予科練)になったのは1945年春。15歳だった。配属先は宝塚海軍航空隊陸戦隊。戦況悪化で練習機もなく飛行機乗りの夢は消えた。

 何かと制裁を受けた。海軍精神注入棒なる直径15センチほどの木の棒があり、手旗信号を読めなかった時は尻に5発くらった。しゃがめなくなって半月ほど四つんばいで用を足した。父は正しかったと何度涙したことか。

 ある日、分隊長の講演があった。ミッドウェー海戦の惨敗など聞いたこともない話を、信じられない思いで聞いた。だが、毎日の訓練で疲れ切り、思わず舟をこぐ者も多かった。

 講演後、分隊長が退室すると「待て」がかかった。海軍の「待て」は絶対だ。班長が一人を指さし「貴様、寝ておったろう! 海軍精神注入棒50本!」。

 一発で彼は「ウン」とうなって倒れた。気絶していた。だが班長は「誰か支えろ」と命じ、50発叩(たた)き続けた。「海軍は死のうがケガをしようが言ったことは最後までやり通す。覚えておけ!」。思わず身震いした。

 気絶した彼はグシャグシャになった尻の肉が骨と離れ、終戦まで退院できなかったそうだ。」

 

ヨーロッパなどの国々ではこうした暴力的な言動が通用した時期があったのでしょうか。ナチスの虐殺は別にして。日本だけの特殊なものでしょうか。


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「戦争あかん」 [平和を]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「『戦争あかん』亡母の声、孫にも  66

 今年の夏休み、中学2年の孫の宿題が戦争についてのリポート作りだった。ふと長女が小学生の頃、同じように戦争について私の母から話を聞き、カセットテ ープに録音していたことを 思い出した。捨てようとしたものの処分しきれない100本余りのテープの中から長女の名前の書かれた1本のテープを見つけた時は鳥肌が立つ思いだった。原稿もないのに、講演会の講師のように次々に出てくる母の言葉は食糧難から疎開、大阪大空襲、初年兵 だった兄、19歳の乙女だった自分、そして終戦の日のことなど多岐にわたった。庶民の本音が46分テープにびっしり収まっていた。父親を早く亡くし、小学校もまともに行けなかった母。「戦争はあかん。犠牲になるのは女性と子供だ。だから戦争をしないようにしっかり勉強をせなあかんで」と三十数年前に自身の孫に話していたことに驚いた。母の声を中学2年の孫でたちと聞いたのは、偶然にも4回目の母の命日。よい供養になったと思う。」(2018924日毎日新聞)

 

家族という密度の濃い関係での伝承は効果的だと思います。戦争は嫌だという人の中にも集団的自衛権の行使を認める方がおられます。そのことが理解できません。


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