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近隣諸国への態度は [平和を]

 

 

古代史の本からです。

 

「白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われているととであるが(石母田正 『日本の古代国家』)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、 中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのであろう。 それでは、国内的な目的、対内的な目的というのは、いかなるものだったのであろうか。 第一の可能性として、中大兄が派兵に踏み切った段階というのは、百済の遺臣鬼室福信 たちが唐の進駐軍に対して叛乱を起こし、各地で勝利を収めていた時期であった。その時点で百済遺臣は倭固に使者を遣わして、援軍の派兵を要請してきたのである。

その際、使者は絶対に客観的な事実を言うわけはない。自分たちはすでに大勝利を収めていて、あたかももう少しで唐軍を半島から駆逐することができるとでもいうようなことを言ったことは、おそらく間違いあるまい。したがって、中大兄と鎌足は、そのような誇張された情報に乗ってしまったことになろう。(一部引用)」(『戦争の日本古代史』)

 

この指摘が当たっているとすれば、この国は663年の「白村江の戦」から1350年を経てもさほど変わっていないように思えます。


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感動したこと [平和を]

 

 

鈍感な私には感動が少ない生活をしていますが、次の投書の方と同じような感動をもらいました。

 

「(声)詩「生きる」を音読、心に響いた 54歳 201873日朝日新聞

 6月23日の沖縄全戦没者追悼式。私は毎年この式で朗読される児童・生徒の「平和の詩」が好きだ。今年は中学3年の相良倫子さんが「生きる」を読み上げた。自作の6分半の長い詩を力強く暗唱、先人たちに不戦を誓った。言葉の抑揚、そして何より内容が素晴らしかった。

〈私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さない〉という決意。幼い頃から「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」と曽祖母に体験談を聞かされてきたそうだ。いろんな複雑な思いがあるだろうに、よく話してくださった。

 私も相良さんの詩の全文を音読してみた。とっても気持ちがよかった。私も今までと変わらず故郷を愛し、静かに過去を見つめ、平和を祈り、未来へ生きていきたい。相良さんの平和を守る、という揺るぎない意思を持った頼もしい若者が一人でも増えることを心から願う。(以下略)」

 

この若者はどうしてこのような精神を育むことができたのでしょうか。体験を聞いたことも大きいのではないでしょうか。

 新聞の戦争体験投稿欄からです。

 

「床下の防空壕 入れず命拾い  84

194588日の八幡大空襲。国民学校6年生 の私は午前10時ごろの空襲警報で母、2人の妹とともに近くの半地下式の防空壕 に逃げ込んだ。その直後、 ものすごい音とともに煙が壕以の中に入ってきた。妹2 人は煙にむせんで泣き叫 び、もう死ぬかと思った。 しかし幸運にも助かった。 前年の820日の空襲で は、わが家の床下の防空壕 にいた。八幡製鉄所が攻撃 目標だったので、爆弾の落 下のものすごい音は恐怖だったが無事だった。 翌年の市街地の空襲で、わが家の防空壕に入っていたら間違いなく今は亡い。近所の人たちや、前日まで遊んでいた友達など家の防空壕に入っていた人は全滅だった。

なぜわが家の防空壕に入らなかったのかと母に聞いた。すると、先祖が残している大切なものを多く入れていたので私たちが入る場がなかったのだと言う。あれから73年。毎年8

8日の慰霊祭に参加するが、同級生とは一人も会えないという、この不思議な体験。これが戦争というものだろうか。」(2018629日西日本新聞)

 


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自分の言葉で [平和を]

 

 

圧巻でしたし、スケールの大きい意見でした。

 

「みんなの広場 沖縄の若者の朗読が圧巻=54歳 毎日新聞2018628

 23日の沖縄全戦没者追悼式で、平和の詩「生きる」を朗読した中学3年の相良倫子さんが素晴らしかった。

6分余、終始真っすぐ前を向いて堂々と暗唱された。張りのある声に抑揚をつけながら、表情豊かに、語りかけるように、言葉を紡いだ。戦没者への哀悼や沖縄への愛、平和の在り方、未来への道しるべを、力強く丁寧に表現した。生き生きとしたその姿には、反戦への断固たる決意と、これからを生きる希望が、はちきれんばかりにあふれて圧巻だった。こんなにも頼もしく、立派な若者を育てた沖縄の大地に、畏怖(いふ)の念さえ抱いた。相良さんに心から感謝と拍手を送りたい。

この後、壇上に立った安倍晋三首相は、ほとんど紙を読むだけのあいさつだった。薄っぺらで上っ面だけの、安っぽい言葉の羅列に過ぎなかったように感じた。(以下略)」

 

詩の冒頭に「マグマ」が出てきて驚きました。投稿の方と同意見です。

日本の大臣などは官僚が作成したメモを読み上げるだけの人になっています。記者会見ではもっと自分の考えを出してもらいたい。

 


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平和常設資料館を [平和を]

 

 

「ニュース川柳

・非核化の言質巧みにクリンチで

・明日がある明日がくると拉致家族

・抱擁に時間を取られ煮詰まらず

・トランプ氏の体制保証も含まれる」(2018618日西日本新聞)

 

新聞の投稿欄からです。

 

「平和希求する常設資料館を  82

73年前の619日は福岡大空襲の日。その時期に先 だって、福岡市赤煉瓦文化 館で開かれた「平和祈念資 料展」を見に行きました。 被災者の私には見覚えのある資料ばかりで、戦時の辛苦がよみがえりました。この資料展は市民の有志による開催で期間はわずか3日。大空襲で市街地は焼け野原になり、死傷者、行方不明者は2千人を超えました。これだけの戦禍を被りながらも、当時の惨状を知り、平和を希求するよすがとなる公立の常設資料館がありません。子や孫に私の空襲体験や戦死した兄の無念の生涯を話すと、真剣に聞いてはく

れでも、それだけでは昔の「物語」でしかなく、伝える力はモノにはかないません。(以下略)」(同前)

 

投書の意見に同感です。

 

 

 


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日韓の協調が [平和を]

 

 

米朝の会談がありました。紆余曲折はあると思いますが、人類の知恵が解決してくれることを強く望みます。

新聞の投稿欄からです。

 

「深い日韓対立 次代が変える  22

国の青少年交流事業で韓国を訪れました。釜山、大邱、木浦、群山、仁川、ソウルの都市を巡り、日韓近現代史に関連する施設を訪問、現地の大学生と交流してきました。日韓で同じ 歴史を共有していても、立場によって重視する部分や認識が違うことを痛感しました。改めて日韓相互理解の難しさを感じました。かつて加害者と被害者という関係であった以上、相手のことを頭で分かることはできても、本当の意味で心まで理解するというのは、 難しいものです。 討論で従軍慰安婦について、韓国側から「日本の謝罪がない」と指摘されました。日本側は「何度も談話で謝罪している」と反論しました。ただ、いろいろな政治的問題を抱えていたとしでも、現地の学生との交流を通じて国民同士仲良くできると実感しました。お互いに日本人だから、韓国人だからという理由で遠ざける人は誰もいない。むしろ韓国の学生たちはとてもフレンドリーに私たちを受け入れてくれました。こうしたつながりが、私たちの世代が大人になったとき、今行き詰まっている政治を変えるものになるのではないかと信じます。」(2018328日西日本新聞)

 

国民の大多数は友好を望んでいると思います。

 

 

 


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マインドコントロール [平和を]

 

 

日本軍の命令について次のような証言があるという。

 

「『命令した側』と『命令を受けた側』の違いだけではなく、命令を受けた側」も、じつ は階級によって大きく違っていました。第1章で紹介した大貫少尉は、召集されて大学を半年繰り上げて卒業し、陸軍の「特別操縦見習士官(特操)」という制度でパイロットになりました。1年強の速成教育でした。大貫少尉を毎日、「振武寮」で罵った倉津少佐は、戦後インタビューに答えて、大学出の「特操」に比べて、少年飛行兵は扱いやすいという持論を語りました。 『十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ』」(「不死身の特攻兵」)

 

今の日本ではどうなのでしょうか。マインドコントロールという話は「宗教団体」のことで語られましたが・・・・。二度とないと言い切れるでしょうか。

 

201854日西日本新聞の戦争体験記からです。

 

「飛行場造りに 駆り出されて  85

昭和204月、小さな町の中学校に入学し、半月後には飛行場造りに駆り出された。朝早く学校を出発し、 目的地の村に着いたのはお昼前。村の婦人会のおばちゃんたちが団子汁を作り、 振る舞ってくれた。 翌日から約30分の道のり を歩き、小高い丘の上が平 らに広がっている現場に着 く。私たちはむしろで作ったモッコにスコップで土を 入れ、前後を2人で担いで 300Mほど離れたところ まで行きモッコを返す。 機動力といえばトラックが1台と荷馬車が4台。あとは全て人力だ。サイレンの音で友達の1人がラッパを吹いて知らせるとみんなは近くの松林に逃げ込む。3時には近くから折ってきた「グミの葉」を火であぶり、大釜のお湯に放り込み、お茶代わりに飲んだ。8月、終戦を迎えた。あの造りかけの飛行場はその後どうなったのだろうか。悲しい思い出である。」

 

 

「引き揚げ母子迎えたレンゲ 82

父の転勤に伴い朝鮮黄海南道海州で育った。父は太平洋戦争開戦前に出征し海軍陸戦隊に。私は開戦後、 国民学校入学。軍事教育と 教練、松根掘りに追われた。 軍部は出征兵士の家族に 軍票を押し付けたが、終戦 と同時に蓄えは紙切れになった。その夜から現地人に よる強奪が始まる。南北境界線が引かれ、母と私たち子ども3人は北朝鮮側に。 家財は没収、収容所に押し 込まれた。疫病が発生し死者も出たが朝鮮人の強奪に悩まされた。 昭和21310日午前1時、集団脱出。凍結した干潟を越境し、仁川港に至る。貨物列車では金を奪われた。韓国側も同じだった。 母は興安丸医務室で凍傷にかかった両手指先を全て 切断された。仙崎港で下り、故郷に向かう道中、小さな紫の花が咲いたたんぼがあった。目を洗われるほどすがすがしい。母がレンゲソウだと言った。故郷も近くなり、母にも新たに気力がよみがえったようだ。今、わが家の畑の隅に毎年レンゲが咲く。」

 

 

 


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若者に知ってもらいたい [平和を]

 

 

「(声)平和のバトン 戦争の話、若者が語りつごう15歳 2018521日朝日新聞

 10代や20代の若者が戦争を語ることはできるのか。また語っていいのか。

 僕たちは戦争を経験したことがない。しかし、悲惨で醜い戦争を肌で知っている方、後世に語り継げる元気な方は減っている。若者が中心となって、戦争を風化させないための行動を起こすべきだと思う。

 ただ、自分たちの感情や思いを話の核にしてはいけない。実際に戦争を経験した人の話を多くの人に広めることが大切であり、僕らにできることだろう。スマホやパソコンを使えば、僕らでも広く伝えられる。フェイスブックやインスタグラムなどのSNSもある。この新聞投稿も一つの手段だ。まずは戦争に関心を持ってもらうことが重要だ。(以下略)」

 

難しく考えないで事実を知ってもらいたい。いじめと日本軍などの体質なども良いかもしれません。私的制裁は私の父の聴力を著しく低下させました。暴力を美化することは恥ずべきことです。

 

「罪とされない私的制裁

 そもそも、軍人の犯罪に適用される特別法としては陸軍では陸軍刑法が存在していたが(海軍では海軍刑法)、同法には「陵虐の罪」が規定されていた。陵虐とは上官が職権を乱用して、部下に対して残虐または苛酷な行為を行うことをいう。しかし、私的制裁 と呼ばれる傷害行為の大多数は、この職権行使と何ら関係のない「一時の憤激」からなされたものと解釈されていたため、「陵虐の罪」が私的制裁に適用されることは、ほとんどなかった。 この点について、陸軍法務中佐の菅野保之は、私的制裁を取り締まる規定が、現行法制上、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」しかないのは、「はなはだ不備なり」と指摘している(『増訂陸軍刑法原論』)。」(『日本軍兵士』)

 

 


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「マンマ」なく [平和を]

 

 

2018330日西日本新聞の戦争体験記からです。

 

「『マンマ』なく 妹と祖母逝く  78

私には5歳下に妹がいた。昭和198月生まれ。色白でお人形のようにかわいい赤ちゃんだった。「暗い時代に生まれたけど、太陽のように明るく元気に育ってほしい」と父は,「陽子」と名付けた。陽子の愛らしさと反比例するように戦局は悪化の一途。ついに敗戦となった。父は職業軍人。家族は父の勤務地、満州(現中国東北部)で暮らしていた。敗戦と同時に父はシベリアに11年間、抑留。祖母、母に幼子4人の6人家族は難民となった。父は31年になって帰国した。まるで「ぼろ切れ」でした。日本に引き揚げ途中、乳は出ず、食べ物はなく、陽子は栄養失調になった。やっと覚えた言葉は「シーシ一」。交換するおむつもないので、母は陽子を抱えて用を足していた。やがて抱っこされる元気もなくなり「シーシー」と訴えながら、かげろうのようにはかなく消えてしまった。祖母も引き揚げ途中、栄養失調で逝った。陽子は「マンマ」の言葉も覚えていた。が、そう言ったとて、おっぱいも何も一ないことを幼心に既に知つていた。」

 

 

「師弟の縁70年 ついにお別れ 83

昨年12月半ば、私が国民学校3年から6年まで担任だった女性教師が90歳でこの世を去られました。当時は授業中でも警報が出ると防空壕ヘ逃げ込み、落ち着いて勉強できる時代 ではありません。お父さんが出征された級友の家ヘ芋掘りの手伝いに。教室で飼うカイコの餌になる桑の葉を近くの農家にもらいに行くのも勉強の一つでした。 太平洋戦争の間ほとんど先生と一緒でした。疎開してきた友達も多く、クラス50人くらいのすし詰め状態。「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」。こんな標語も大きな声で叫びました。一戦局が悪化、お弁当は代用食をと厳しく言われ、嫌々ながらふかした芋を持参しました。父母とは私が30代半ばに死別。先生とは実に70年余もの師弟の縁が続き、大人になってからも相談に乗ってもらいました。娘も孫もよく先生のお宅ヘ出掛け、話を聞いてもらっていたようです。先生が先立たれたご主人と天国で会っておられる姿を想像しつつ、うつろな心を埋めています。」

 

 

「ハルビンの友訃報に心沈む  89

友の訃報が届いた。思い出に今日も私の心は沈む。 高齢になった今、いつか別れが来るとは頭の中では分かっていたが、現実となる と何という悲しさか。昨年、10月、熊本で同級生4人で集ったのが最後となった。 私たちは満州(現中国東 北部)ハルビン富士高等女学校を昭和20年春卒業。その夏、日本は敗れ、外地の日本人の生活は一変した。ハルビンの街を闊歩していた日本人の姿は消えた。それから1年余り後、待ちに待った祖国日本への引き揚げが殆まった。財産は没収され、リュック一つで満州の広野を南下した。今回亡くなった友は引き揚げ後、両親を亡くした。看護師の資格を取り、弟妹の学資、就職、結婚を親代りとなって面倒を見たと聞いた。素晴らしい友であった。熊本での同窓会では面倒を掛け、お世話になった。在りし日の姿をしのび、 ご冥福を心より祈っている。」

 


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理不尽な暴力 [平和を]

 

 

新聞の戦争体験記からです。

 

「運命左右した徴兵検査判定 61

「戦前の日本男子の成人式は徴兵検査だった」と大正生まれの父はよく語っていた。着衣を脱ぎ、身長、体重、鼻の測定、検査などが行われ、身体の頑健さに応じ 甲種、第一乙種、第二乙種 などの判定が下される。父 は柔道をやっていたので当 然合格したはずだったのだ ろうが、たまたま病気で甲 種合格せず徴兵を免れた。 「もし合格していたら南方 で戦死していた」と語る。戦時下は「お国のために」と若者を洗脳したので、兵隊に行くのは当然だったが昭和の初めごろは甲種合格は憂鬱を極め、不合格者は喜び騒いだそうである。 合格者は現役兵として入営し、陸軍は2年、海軍は3年の兵役に服さねばならなかった。軍隊は上官の命令で動く右向け右の組織であり、精神教育として理不尽な暴力が待っていた。政府は憲法解釈を変え、戦争ができる国を目指しているが、これから日本を背負う若者の命を簡単に奪うことはあってはならない。」(201854日西日本新聞)

 

昭和の初め頃では徴兵検査合格では憂鬱を極めていたという。そのひとつに暴力体質が挙げられています。

 

詩人の吉野弘氏は次のように述べています。

 

「当時の学校生活で上級生が下級生を殴るのは日常事であった。表向きは禁じられていたが、先生の目の届かぬ所では公然と行なわれた。五年間の在学中、上級生から殴られずにすむような生徒は稀れであった。外で買食いをすることや映画を見ること、 女生徒と親しくすることなどは禁じられていたから、禁を犯して上級生に見つかったら無事ではすまなかった。だから当時は、先生より上級生の方が遥かにこわかった。 このように「殴ること」が日常茶飯事だったことの背景には軍隊の存在が考えられ る。軍隊の教育は殴って教えるのであり、その実状は、軍隊生活を体験した者の口から一般の人々の耳に届いていて、誰でもが知っていた。」

 

精神論が重宝される背景のひとつかもしれない。


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特攻で死ななかった人も [平和を]

 

 

9度特攻で出撃して9回戻ってきた佐々木氏の話です。最初の出撃で体当たりしたことになっているので軍としてはなんとしてでも体当たりしてもらいたいのです。

 

1124日、明日、出撃すべしという3度目の特攻命令を佐々木は受けた。奥原伍長と 佐々木、2機だけの万朶隊の出撃だった。 25日、正午近く、大きな口髭をつけた猿渡参謀長は、厳しい顔で「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」と叱りつけるように言った。直掩機の隊長、作見一郎中尉が佐々木に燃料をどれぐらい持っていくかとたずねた。佐々木はできるだけ一杯にして行くと答えた。さらに爆弾は落とせるのかと作見隊長は聞き、佐々木は落とせるようにしていると答えた」(『不死身の特攻兵』)

 

佐々木氏は体当たりでなく爆弾で沈ませてみせるという意気込みだったようですが・・・。

こんな思考で貫き通したというのは稀有なことでしょうが。

 

新聞の戦争体験投稿欄からです。

 

「兄2人も姉も命を奪われた 82

5人、女4人の大家族を養うのに、両親の負担はかなり重かったことは容易に想像できる。衣服は譲り物、母は繕い事で毎晩夜なべをしていた。食料はサツマイモ、カボチャが主食で兄弟姉妹の争いは衣服の取り違い、食べ物の奪い合いがほとんど。我慢の毎日が 恨めしかった。 長兄は弁護士を志し、大 学2年の時、学徒動員で召 集を受けた。南方諸島に輸 送中、爆撃で海の藻屑と消 え、白木の箱には石ころ1 個が帰還した。その時、父の涙を初めて見た。次兄は満州華北に勤務中、戦場に送られ九死に一生を得て戦後帰郷したが栄養不足がたいたってか、まもなく病死した。

3兄は旧制中学を卒え少 年航空隊に志願。生死も行 方も不明のまま戦後3年目 に無事帰宅した。ソ連に抑留されていた。次姉は喉の痛みが悪化。当時は病院も薬とてない。肺炎を患い小6の時に病死した。母が遺体に取りすがり号泣した姿は今でも鮮明に焼きついて離れない。多くの人命を奪う戦争の醜さ。戦争は二度といやだ。」(2018427日西日本新聞)

 


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